慶長年中に、幕府が喫煙禁止令を出したとき、諸国の大名もまたそれぞれその領内に対して禁煙令を出したようであるが、就中《なかんずく》薩摩の島津氏の如きは、その違犯者に対して随分厳罰を科したのであった。一体、薩摩は当時のいわゆる南蛮人が夙《はや》くから渡来した地方であるから、煙草の如きも比較的早くよりこの地方に伝播《でんぱ》して、喫煙の風は余程広く行われ、その弊害も少なくはなかったものと見えて、かの文之和尚の「南浦文集」の中にも、風俗の頽敗と喫煙の風とに関した次の如き詩を載せている。
[#ここから2字下げ、「一二」は返り点]
風俗常憂頽敗※[#「※」は「しんにょうに端のつくり」、第4水準2-89-92、65-8] 人人左衽拍二其肩一
逸居飽食坐終日 飲二此無名野草煙一
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それで、島津氏も厳令を下して喫煙を禁止しようとしたのである。「崎陽古今物語」という書に次の如き記事が見えている。
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竜伯様(島津義久)惟新様(島津義弘)至二御代に一、日本国中、天下よりたばこ御禁制に被二仰渡一、御|国許《くにもと》之儀は、弥《いよいよ》稠敷《きびしく》被二仰渡一候由候処に、令《せしめ》二違背一密々呑申者共有レ之、後には相知、皆死罪に為レ被二仰渡一由候云々。
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この如く違犯者を死刑に処するまでに厳重に禁制したのであったけれども、その効果は遂に見えなかったのである。同書、前掲の文の続きに、
[#ここから2字下げ、「レ」は返り点]
執着深き者共は、やにをほそき竹きせるに詰《つめ》、紙帳を釣り、其内にて密々呑為申者共も、方々為有レ之由候。
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と有るのを見ても、因襲既に久しきがため、この風の牢乎《ろうこ》として抜き難かったことを知ることが出来よう。かくて、後年に至って薩摩煙草はかえって天下の名産たるに至ったのである。
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一九 松平信綱の象刑《しょうけい》
支那《シナ》においては、古代絵画に依って刑法を公示し、これに依って文字を知らない朦昧《もうまい》の人民に法禁を知らしめる方法が行われた。「舜典」に「象《かたどるに》以二典刑一」[#「」内の一二は返り点]といい、呉氏がこれを解釈して、「刑を用うるところの象を図して示し、智愚をして皆知らしむ」といい、また「晋《しん》刑法志」に「五帝象を画いて民禁を知る」とあるなどは、皆刑罰の絵を宮門の双闕《そうけつ》その他の場所に掲げて人民を警《いまし》めたことを指すもので、これに依っても古聖王が法を朦昧の人民に布き、これを法治生活に導くのに如何に苦心したかを想像することが出来る。
我国において、絵画に依って法禁を公示したのは、彼の智慧伊豆と称せられた松平伊豆守信綱である。将軍家綱の時、明暦三年、江戸に未曾有の大火があって、死者の数が十万八千余人の多きに達したので、火災後、火の元取締の法は一般に非常に厳重になった。「信綱記」に依れば、伊豆守の家中においても、番所にて「たばこ」を呑むことを堅く禁じたが、或日土蔵番の者が窃《ひそか》に鮑殻《ほうかく》に火を入れて来て「たばこ」を呑み、番所の畳を少し焦した事がある。伊豆守は目付の者の訴に依ってこれを知り、大いに怒って直ちにその者を斬罪《ざんざい》に申付けたが、その後ち思案して、吉利支丹《キリシタン》の目明し右衛門作という油絵を上手に画く者に命じて、火を盗み「たばこ」を呑んで畳を焼いたところと、その者の刑に処せられているところとを板に描かせて、これを邸内の人通りの多い所に立て置き、これを諸人の見せしめとした。ところがその刑罰の有様が如何にも真に逼《せま》って、観《み》る者をして悚然《しょうぜん》たらしめたので、その後ち禁を犯す者が跡を絶つに至ったということである。
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右衛門作、氏は山田、肥前の人で、島原の乱に反徒に党《くみ》して城中に在ったが、悔悟して内応を謀り、事|覚《あら》われて獄中に囚《とら》われていたが、乱|平《たいら》ぎたる後ち、伊豆守はこれを赦して江戸に連れ帰り、吉利支丹の目明しとしてこれを用いた。右衛門作はよく油絵を学び巧に人物|花卉《かき》を描いたが、彼が刑罰の図を作ることを命ぜられたのもそのためであった。後ち耶蘇教を人に勧めたために、獄に投ぜられて牢死したということである。