昔東京では提灯引けといって、言わば狐鼠々々と取片附けるというような葬いは、夜の引明けに出したものだそうであるが、それ程ではなくともこうした朝早くの葬式は、やはり見送る人々の仕事の都合や何かを顧慮した、便宜的な質素な葬式なのであろう。然しお祭騒ぎをされずに、瑞々しい若葉の朝を、きわめて小人数の人に護られて来た仏は、貧しいながら何か幸福のようにも思われ、悲しい人事ではあるが、微笑まれもしたのである。この時私はふと何年か昔に、紅葉山人が自分の葬儀の折にこの駕籠を用いさせたことを思い出した。然しそれは万事に質素な其の時分でも、ちと破格過ぎることであった。その折の写真を見ると、流石に当年文壇の第一人者だけあって、銘旗を立てた葬列は長々と続いて居るが、柩はその上に高くかつがれた寝棺ではなくて、文豪と謳われた人の亡きがらを載せた一挺の駕籠が、その葬列の中に、有りとも見えず護られて居るのである。潔癖、意地、凝り、渋み、そういう江戸の伝統を伝えたといわれる此の人の、これが最後の註文の一つであったかと思ったのは、私もまだ年の行かない頃のことであったが、今はからずもそれを思い出したのである。