それは今や鼠に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治を決行するに及ばなかった。男も女も、一応妖異に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲生活の第一夜を絢爛と踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写している遑はない。
それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具の裾のところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中を匐い廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推して立廻りへと移行したが、両人が相手の顔を捻じて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井の桟に釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘やノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子かトランクの蓋が開いて、その中身が五彩の滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。
トランクの後を追って書きつけていると際限がないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。