奧山の村を外れて陣座峠の路にかゝる。路は伊井谷川の源とも見受けらるゝ溪に沿うてゐた。溪は細く、岩の床で、岸の一方は直ちに雜木林となつてゐた。流 れつ湛へつしてゐる水際には岩躑躅が到るところに咲いてゐた。いよ/\登りにかゝらうとするあたりで水を飮まうと谷ばたに降りてゆくと、其處の澱(よど) みには大きなやまと鮠[#「やまと鮠」に傍点]が四五疋、影も靜かに浮んでゐた。谷のいよ/\細くなつたあたりの岩の蔭にはあぶらめ[#「あぶらめ」に傍 点]といふ魚が遊んでゐた。幼い時、三尺か四尺の釣竿でこれらの魚を釣つて歩いた故郷の山奧の溪が思ひ出された。空は昨日と同じく晴とも曇ともつかぬ梅雨 の空であつた。 陣座峠は遠江と三河との國境に當つて居る。國境の山といふと大きく聞えるが、僅か一千五百尺ほどの高さ、登りも下りも穩かな傾斜で、明るい峠であつた。ことに遠州路の方は木立が深くて登るに涼しかつた。その深い木立の下草に諸所木苺(きいちご)の實(み)がまつ黄に熟れてゐた。いゝ歳をした二人、ことに一人は半白以上の白髮、あとの一人にもこの頃めつきりそれが見えだして來たといふ二人はわれさきにとその小さい粒の實を摘みとつてたべた。
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