この夜の女史の姿は確に芸術家らしい謙遜なものであった。その外にも私は気の強い女史の口からこれに類する弱音をなお一、二度聞いた事があった。「ピアノを音階からやり直すといっても、私にはもう年がない。力もない!」とも言った。その度に私はこれこそ女史の芸術の一進歩であると思った。
久野女史は正に過渡期のニホンの楽界の犠牲である。本当にピアノを理解しなかった過去のニホンは知らず知らずこの哀れなる天才を弄んでいた。ピアノを聞く代りに熱情を聞いていた。ピアノそのものの興味の代りに久野女史の逸話に興じていた。ピアノの技巧の不備な処を逸話や、生活に対する同情や、空虚な文学的な形容詞などで補うていた。またそれ以上に一般には音楽を理解する途がわからなかった。そして女史もその不健康な空気の中に生きていた。それは感情的な女性の弱点である。決してたれも今更それをとがめようとは言わぬ。
しかしベルリンではもはや逸話も同情も用をなさぬ。ピアノはただ強く早くたたきつける事ばかりが熱情と努力の現れではない。ピアノはまず純粋にピアノでなくてはならぬ。ベートーヴェンのゾナーテは文学上の形容詞でなく、純粋にピアノの音楽の形式の上で再現されなければならぬ。此処で女史は恐らく一度途方に暮れたかもしれぬ。 <a href="http://www.deliask.net/shinjuku/">デリヘル 新宿</a> <a href="http://nakukoto.jugem.jp/">http://nakukoto.jugem.jp/</a>