この二人位日本画の運命といふものを
- 2013年5月23日 [ konoyo ]
この二人位日本画の運命といふものを自覚して、その運命をともにしようとしてゐる作家は他にゐないのである。さうした自覚に立脚して仕事をしてゐるといふことが、この二人を自己の仕事を過度に前進もさせなければ、特に後退もしないといふ実力を示すのである。殊に吉岡堅二氏の『馬』は在り合せの形式的な美術論の中から批評の尺度を求めてきては、一言も批評ができる性質の作品ではない。見給へ、吉岡の、『馬』に対して世間では何を語り得てゐるか。今年の馬は、去年の馬よりも良いとか悪いとかといつた単純な批評では批評でも何でもない。馬喰的言辞といふべきだ。少くとも吉岡の作品の場合には、この作家の心理的な創作以前の問題に一通りの関心を示してからでなければ、できあがつた作品に対しては一言半句も批評的な言葉を吐けない筈である。吉岡の場合は日本画の新しい形式的確立の手段の立て方が、余りにも内省的だといつてもいゝほどに苦渋な方法を採つてゐる。吉岡の『馬』は、吉岡といふ作家が、描く対象物に対して彼は形態の破壊を目的としてゐるのか、或は形態の構成を目的としてゐるのかわからないほどの状態で描いてゐるのである。調布 歯医者 虎穴に入らずんば虎子を得ず
投稿者 konoyo : PM10:29