■汚い聴診器で産婦の体を見てから
翌朝谷中の俳友が訪ねて来た時、笹村は産婦の枕頭に坐っていた。「そう、それはよかった。」 裁卸しの夏羽織を着た俳友は、産室の次の室へ入って来ると、いつもの調子でおめでたを述べた。沈んだ家のなかの空気が、にわかに陽気らしく見えた。「どうだね、それで……。」と、俳友はいろいろの話を聴き取ってから、この場合笹村の手元の苦しいことを気遣った。「少しぐらいならどうにかしよう。」「そうだね、もし出来たらそう願いたいんだが……。」笹村はそのことも頼んだ。 二人の前には、産婦が産前に好んで食べた苺が皿に盛られてあった。産婦は長くも寝ていられなかった。足や腰に少し力がつくと、起き出して何かして見たくなった。大きな厄難から首尾よく脱れた喜悦もあったり、産れた男の子が、人並みすぐれて醜いというほどでもなかったので、何がなし一人前の女になったような心持もしていた。 七夜には自身で水口へ出て来て、肴を見繕ったり、その肴屋と医者とが祝ってくれた鯉の入れてある盥の前にしゃがんで見たり、俳友が持って来てくれた、派手な浴衣地を取りあげて見たりしていた。産婆は自分の世話をするお終いの湯をつかわせて、涼風の吹く窓先に赤子を据え、剃刀で臍の緒を切って、米粒と一緒にそれを紙に包んで、そこにおくと、「ここへ赤ちゃんの名と生年月日時間をお書きになってしまっておいて下さい。」と、笹村に言った。
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