一災起これば二災起こる
■温厚にして長者の風のあった人
政宗が毒を使ったという事は無くても、氏郷が西大寺を飲んだという事は存在した事実と看て差支あるまい。 其日氏郷は本街道、政宗は街道右手を、並んで進んだ。はや此辺は叛乱地で、地理は山あり水あって一寸錯綜し、処々に大崎氏の諸将等が以前拠って居た小城が有るのだった。氏郷軍は民家を焼払って進んだところ、本街道筋にも一揆の籠った敵城があった。それは四竈、中新田など云うのであった。氏郷の勢に怖れて抵抗せずに城を開いて去ったので、中新田に止まり、氏郷は城の中に、政宗は城より七八町距たった大屋敷に陣取ったから、氏郷の先隊四将は本隊を離れて政宗の営の近辺に特に陣取った。無論政宗を監視する押えであった。此の中新田附近は最近、即ち足掛四年前の天正十五年正月に戦場となった処で、其戦は伊達政宗の方の大敗となって、大崎の隣大名たる葛西左京太夫晴信が使を遣わして慰問したのはまだしも、越後の上杉景勝からさえ使者を遣して特に慰問されたほど諸方に響き渡り、又反覆常無き大内定綱は一度政宗に降参した阿子島民部を誘って自分に就かせたほど、伊達の威を落したものだった。多摩市 リフォーム

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